担当師家あいさつ

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平成29年5月より竜穏庵井本光蓮老師に担当師家としてお世話いただいています。

平成3115日(土)18:30~ 四国禅会 新年互礼会 竜穏庵老師垂示

明けましておめでとうございます。年頭にあたり少しお話をさせていただきます。

正月一日の良寛和尚の手紙を読んでみます。

「是はあたりの人に候。夫は他国へ穴ほりに行きしが、如何致候やら、去る冬は帰へらず、こどもを多くもち候得ども、まだ十より下なり。此春は村々を乞食して其日を送り候。何ぞあたへて渡世の助にもいたせんとおもへども、貧窮の僧なればいたしかたもなし。なになりと少々此者に御あたいくださるべく候。正月一日」

これは良寛和尚を最後までお世話をした豪農の親友、解良叔門という人に当てた手紙です。正月の手紙ですけれども、おめでとうとかいう挨拶はなしに、いきなり夫は他国へ穴掘りにでかけたけれども、いつもなら正月に帰ってくるのに帰ってこなかった。年は十より下の子どもが多くいるが働きはない。この春は村々を乞食して送っている。こういう地獄の底から出てきたような女の乞食ですね。何にも与えるものがないから、この手紙を持って解良叔門の所へ行きなさい。解良家は豪農ですからどういう扱いをしたか分かりませんが、この女の人は地獄の底から良寛の所へきて仏様に会ったようになったんですね。この手紙が今も解良家に残っています。言いたいことは、今拝読しました立教の主旨の中に第一の自利利他の願臨を廻らして本当の人生を味わいつつ、世界楽土を建設するのが目的なんだ。世界楽土というのは遥か彼方にあって手の届くようなものではないと思いがちなんですが、こういうふうにこの女の乞食のように地獄から世界楽土のど真ん中に出てきた、そういうふうな喜びがあったと思います。実際には自分らの脚下から世界楽土への道が続いているということを言いたかったんです。

この時分には皆貧しいものですから、こういう手紙もあります。

「寒天の節、如何お暮し候や野僧無事に過ごしおり候。もめん衣なくいたし不自由に候。もめん二反墨染めになし遣わさるべく候。ひとへに願入候。十月五日」

これは木綿の衣なくして不自由にしているからどうぞ墨染めにしてお送りください。この書簡は良寛の和歌と関係がありそうだと相馬御風氏がいっています。

「神無月の此、蓑一つ着たる人の門に立ちて物乞ひければ、古衣ぬぎすててとらせぬ。その夜あらしのいと寒う吹きたりければ、いづこにか旅寝しるらぬばたまの夜半のあらしのうたて寒きに」

という良寛の歌にこれがついておるということです。裸の上に蓑だけ来て物乞いにきた男がいて、良寛はその場で自分の衣を脱いでその者に与えた。そのために寒く不自由になってこの衣の無心の手紙を書いたんということでしょう。十月五日は神無月、今の十一月ですね

 もうひとつ読んでおきましょう。解良叔門の息子だと思いますが、解良栄重という人が良寛禅師奇話というものを書き残しておりまして、その中に載っている実話です。

「盗あり。国上の草庵に入る。物の盗み去るべきなし。師の臥蓐をひきて、密かに奪んとす。師寝て知らざるもの、如くし、自ら身を転じ、其ひくにまかせ盗み去らしむ。」

盗人が入った、良寛のいた国上山の五合庵に。庵の中には何にも盗むものはない。良寛和尚の寝ている布団を引っ張って、寝ているのを起こさずに布団だけを奪おうとしている。良寛は眠っているふりをして、ごろりと身を転じて布団を盗ましてやった。この時分は皆貧しいものですから良寛和尚は自分の出来ることを全力でやるわけですね。それが自利利他の願臨を廻らすということになると思います。我々の場合は、乞食が訪ねてくることはなくなりましたけれども、道場へ来る方というのは心に悩みのある人です。維摩居士が、「衆生病むがゆえに我病む」衆生が病んでる間はこの病気は治らないといわれたそうです。そういう心が病んでいる人が来るわけです。そういう人に対して何をしたらいいのかいうことを、工夫してほしいと思います。さしあたりは数息観を説くということ、実際に数息観のありがたみが身に染みて分かっている者であればそれができるはずです。もう少し進んだ人には参禅を進める。本当に参禅してよかったという喜びを知っている者ならそれができるはずです。

この修行は必ずしも人数によるものではありませんが、支部になるためにはもう少し人が欲しい。そういうことを心がけてほしい。入門した人が一人も来ないということは、反省しなければなりません。今年はしっかりやりましょう。はい。

新年互礼会 竜穏庵老師垂示  平成30年1月6日

明けましておめでとうございます。

今年は人間禅の70周年に当たります節目の大事な年でございます。総裁が禅誌正月号にお言葉を載せてありましたので、それを借りまして少しお話しておきます。

人工知能が人間社会を大きく変えようとしています。AIロボットが人間の仕事をどんどん奪っている。そういう現状があります。然しAIロボットが宗教の核心に近づくことは不可能である。絶対界(三昧の世界)はオン、オフの二進法では取り扱えない。見性するためには三昧によるしかない。真の人間形成は相対界の知性の構築・拡張ではなくて、絶対界の感性の充実・涵養である。というふうに言われています。X軸、Y軸があって、その二つの軸が確定する平面をいくら感じても、走査し尽くしても、それとは別次元のZ軸というものには出くわさない。AI時代になればなるほど、ロボットに出来ない仕事をする人間が必要になってくる。機械がプロ棋士を完全に打ち負かしてしまうという時代になっております。英語の先生もロボットにとって代られるとも言われています。そういう時代だからこそ、坐禅による人間形成がますます大事になってくるというふうに言われております。

「自利利他の願輪を廻らして本当の人生を味わいつつ、世界楽土を建設する。」それが我々の大きな目標ですが、利他ということは自分自身が魅力的な人間になるということですね。魅力的な人間の香りに引かれて、その香りに染まっていくのが、利他の働きなのですが、なかなかそういう風にはなりませんのですけれども、特に火大級以上の人は利他を目指してもらいたい。その利他がそのまま自利になるんだということです。それから旧参の方の進級ということも考えております。「五蘊皆空」の終わった者は書分けのコピーを出していただきたい。これからいよいよ自分一個でなしに自分の周りにいる人のことを考えていく。そういう風なところまで来ておりますので、ますます励んでいただきたい。

◎円相について

新しいお茶人から、今度の茶会に掛けようと思う と 墨跡の解を聞かれました。拝見すると、円相を画いて讃語に、「人々這ケ出不得」とあり、筆者は大徳寺の宙宝和尚です。

円相の意味は、讃語によって変わってきます。

「人々這箇出不得」とか「天下の衲僧跳不出」とかある場合は、縦に無始劫来より尽未来際まで、横には大宇宙の隅から隅まで、絶対の真理(如是の法)が充ち満ちているのだから、この円相から外に飛び出すことは絶対に不可能だという意味です。人間だけでなく山川草木禽獣虫魚に至るまで、一切の存在がこのままここで生き、ここで死んでゆけばそれでよいのです。悟っていようが迷っていようが、そんなことは一切関係ありません。

『法華経』には「一切治生産業みな実相と相違背せず」とありますし、道歌にも「雲晴れてのちの光と思うなよ元より空にありあけの月」とあります。

 安心して生き、安心して死んでゆきましょう。

 それでも、自分自身に「うん、そうか」と納得できぬうちは、どうしても安心出来ぬという人のために、「坐禅」があります。どうぞあなたのお越しをお待ちしております。

              竜穏庵井本光蓮 合掌


濤庵老師年頭垂示
平成29年1月8日(日)人間禅四国道場

新年明けましておめでとうございます。この一年が平和な年でありますように祈念いたします。

さて、新年の垂示をするにあたり、一昨年、昨年の垂示を思い出しますと一昨年が、「趣味の坐禅に堕するな。」ということを申し上げました。昨年は、「禅は日常底の中に落とし込むような修行をしなければ、本物にはなれない。結局は禅学をして終りになる」禅が毎日の生活の中にどう生きてくるかということをめがけて修行しなければだめだ。それを防ぐためにも作務をしっかりしなさいということです。   次に「自己を空ずる修行をしなさい」ということです。自己を空ずるということは究極のところは我見を切っていく修行をせよということを申し上げました。結局この三点に尽きていますので、さらに付け加えるということはありません。禅道・仏法の奥の院は、無念の念を念として歌うも舞うも法の声といわれるように、無修無證の境涯に到ることであります。お釈迦様がそう云われている。そこに到る為にも、一日一炷香の厳修でありますが、文字どおりの一日に一炷香は少なすぎる。我々凡夫はやはり多く坐ることが大事であります。今日から死ぬまで二万炷香を目標に坐ったらよろしい。坐らんでもいいという理屈を言う人もいますが、それはあまり坐ってない人が言うんです。自分があまり坐っていないことを吐露している。やはり坐れば坐るほどいいんです。だまされたと思って坐ることが大事であります。

お互い体に気をつけてこの一年を自利利他のために精進しましょう。

濤庵老師年頭垂示 
   平成28年1月9日(土)人間禅四国道場新年互礼会にて

 新年明けましておめでとうございます。

 この正月は、例年になく暖かく、過ごしやすい日が続きました。昨今の世界情勢を見ますと、大分きな臭いことが起こっていますが、平和な一年であって欲しいと願っております。

 さて、昨年は、趣味レベルの修行をしていては、モノにならないということを申し上げましたが、昨年のことを反省して、皆さん方はどうでありましたでしょうか? 今年は、年頭に当たり二つの点を申し上げたいと思います。先ず一点目、禅は日常底の中に落とし込むような修行をしなければ、本物にはなれないということです。禅が毎日の具体的な生活の上になければならない、さもなければ、観念論者の絵空事になってしまいます。それを禅学という。禅が、毎日の具体的な日常生活の上になければならないことを、臨済禅師は「心心不異」といい、道元禅師は「威儀即仏法」といい、正受老人は「正念工夫不断相続」と云った。また、白隠禅師は「動中の工夫は、静中の工夫にまさること百千億倍なり」といい、耕雲庵英山老大師は「念々正念歩歩如是」と云った。これらの先達が云ったのは、日常底に落とし込むような修行をせよということであります。だから、禅者は日常底の行履が大事であり、その人の日常底を見れば、その人の修行のレベルが判るというものです。我々のような在家の修行者は、えてして禅学になりがちであります。そのようなことにならないように、摂心会では、作務や食事を静坐と同等に大事な行事としているのであります。ですから作務がしっかりできないようでは、いくら公案を透過したと云っても、なんの力も得ていないということになります。そのような者は、禅者としての活発発地の働きがありませんし、なんといっても、禅者としての境涯が円熟しないということです。

 今年は、作務をしっかりできるようにしましょう。作務がしっかりできるとはどういうことかと申しますと、自分の担当であるから、その場所はやるとか、作務日であるから作務をやるというような商売人のような作務をすることではありません。もちろん、自分の担当のところすらやらないのは論外ですが、そうではなくて、自分が穢いと思ったら、すぐそれをきれいにすることです。自分の担当の場所でなくても、作務日でなくても、自分がきたないと思ったら、人に云わずに自分で、その場で綺麗にする。そういうことを実行してみて下さい。作務で大事なことは、「やりっぱなしにしない」ことです。後始末が大事です。何十年修行しても、この後始末ができない人がいる。このような修行をしていては駄目です。

 次に第二点目は、自己を空ずる修行をしようということです。禅の専門僧堂では、自己を空ずるというところまで、修行が進んだら、自己を空ずる修行を3年せよ!といい、ある程度自己を空ずることができるようになったと師家が判断した時に、次の公案を与えるということを聞きました。師家にとっても、大変に忍耐の要ることです。では自己を空ずるとは、どういうことか?自己を空ずるというと、言葉では、判ったような気になりますが、実際に自己を空ずる修行とは、どういうことをするのかということに対する眞正の見解を呈する人は少ない。自己を空ずるとは、我見をなくすることだ。我見とは何か?分別心だ!この我見をなくすることが、最後に残った修行だ。死ぬまでの修行であります。

 禅の修行の終極・極致は、自と他の畔を切って、自己没却底の日常をおくることです。これ以外に、禅での人間形成の極致はありません。それに向って修行していくのです。その為には、我見をなくすことです。我見を切っていく修行、これが自己を空ずる修行です。何十年修行したといっても、我見を切っていく修行をしていない人は駄目です。折角貴重な時間を割いて修行していくわけですから、この自己を空ずる修行・我見を切っていく修行をして下さい。

 本年は、この二点、日常底に落とし込む修行・その為には、作務をしっかりする。次に、自己を空ずる修行・我見を切っていく修行を目標に、この一年を過ごしましょう。お互い、お体をお大事に! 

平成27年新年の垂示

新年あけましておめでとうございます。だいぶ寒いですが、まぁ穏やかな三が日であります。本年が穏やかな年であるよう祈念します。

平成27年の年初に当たりまして一言申し上げます。大燈国師の「衣食のために頭を集むることなかれ」の遺誡や夢窓国師の「われに三等の弟子あり」という遺誡がありますように、鎌倉時代や室町時代にも、この事の修行に専一に取り組む出家僧は少なかったようです。まして現在においておやというところでしょう。志を立て、坐禅するために出家した方々ですら、何時とはなしに、初心を忘れ、修行事を放擲する者があったと思われます。まして、吾々は在家の居士でありながら、修行をするわけですから、なおさら、この事に没頭するわけにはいかないので、ついつい修行が手ぬるくなってまいります。つまり、趣味の坐禅に堕することとなってまいります。

 趣味の坐禅とは、どういうことかと申し上げると、お茶などのお稽古ごとと、同レベルということで、このレベルの坐禅だと、他の趣味と坐禅の行事が重なったら、坐禅の行事はやめて、他の趣味の行事に参加するということになります。

 この事の修行は、趣味のレベルでは、本物にはなりません。自分の生活の一部・本当は全部なのですが、少なくとも一部にならなければ駄目です。ですから、日常の日課が大事です。その人の修行のレベルは日常の日課に現れます。どうせ修行をやるなら本物になるように心掛けたいものです。

 本年は、自分の坐禅が趣味のレベルかどうかを検証する年としましょう。

つぎに、吾々の修行は、究極のところ、上求菩提・下化衆生の菩薩道を行ずることでありますが、ともすると、上求菩提即ち自利の面ばかり熱心に行われ、下化衆生の利他については、おろそかになる傾向がありますが、これは間違いで、上・菩提を求めるのは、下・衆生を化するが為でありますので、利他行の伴わない修行は、本物ではありません。

 吾々の利他行とは何かと申しますと、坐禅を勧めることです。これは、人間禅に入ることを勧めるというケチなことを云っているのではありません。一人でも多くの人に坐禅することを勧めるのです。これが我々の利他行であるということを再認識し、お体に気をつけて、本年も布教に取り組みましょう。合掌                    平成27年1月3日