「夢」

                           「夢」 
                                                        竜穏庵光蓮

 一山一寧禅師が「夢」の一字を書いて、それに「尽く(ことごと)謂う(い)、荘子胡蝶を夢むと。誰か知らん、胡蝶の荘周を夢みることを。」と賛をしている。「誰もが、荘子が胡蝶の夢を見たことは知っている。だが、胡蝶が荘周の夢を見たことを、一体誰が知っているだろうか?」と。
 胡蝶が見た荘周の夢とは、一体どんな夢だろう?
 禅では先ず、迷っている人が、最初の見性(悟り)で夢からガラリと覚める。それ以後、刻苦して道眼を磨き、道力をつけて、段々と人間形成が進むにつれて、どうも悟りの世界も亦、夢ではないかと気がつくようになる。
 沢庵禅師は「夢」の一字に、「百年三万六千日、弥勒観音幾(いくばく)の是非、是も亦夢、非も亦夢、弥勒も夢、観音も夢、仏云くまさに如是の観をなすべし矣。」と書き、玉舟禅師は、同じく「夢」の一字に「従上の仏祖、天下の老和尚、すべて箇の一字の中に在り。」と賛をしている。
 これらは皆、悟りから覚めて始めて見る夢である。般若心経の「色即是空・空即是色」は決して単なる法理ではない、己の人生も亦、この通り色であると同時に、空でもある。空のままで亦色でもある。
ここに到って始めて荘周の見た(胡蝶の)夢と胡蝶の見た(荘周の)夢とが混然一体となって、そこに大無心の境地から無礙自在な、天下と同根・万物と一体の、荘大な「夢」が展開してくるのではなかろうか。