合掌の精神

人間禅四国道場の先輩である井原澄徹老居士の著書『河童毒言』より

「合掌の精神」
耕雲庵老大使は「合掌」を次の3点に要約されています。
真理に合掌する   (正しく 法)
自己に合掌する   (楽しく 仏)
おたがいに合掌する (仲よく 僧)
まず、「真理に合掌する」から多少、蛇足を加えさせていただきます。「真理」とは、天地に先立って生じているもので、人間が創造したものではないことはご承知でしょう。日月星辰の運行、春夏秋冬の変化、生老病死の事実。花が咲き、鳥が鳴くのも「真理」のあらわれです。是非善悪は人間中心の規則で、そのまま「正しい」といえないのは、戦争一つ例に考えれば、明らかです。環境汚染、公害などの問題も同じでしょう。何が正しいか、何が真理なのかを見極めない盲動は、人類破滅の方向に突進する危険性を多分にもっています。「赤信号、みんなで渡れば」式ではなく、バカ正直と笑われようと、立ち止まる勇気が必要だ、と思います。政治・経済ばかりでなく、身近な家庭・職場・育児などの面でも「金剛王宝剣」をふるう大勇猛心が大事でしょう。それが「真理に合掌する」第一歩だ、と思います。
次に、「自己に合掌する」。中国、宋時代の大詩人・蘇東摑が、合掌して立つ観音様に疑問を抱き、質問しました。「観音様は、いったい、どなたに合掌して?」師の仏印和尚はただひとこと。「ただ、観音の御名を念ずるのみ」。観音様は観音様に合掌するのです。自己に合掌するのは、この精神なのです。「主人公」に合掌するのです。「主人公よ!」と自分で自分に呼びかけ、「煋々着!(他にまどわされるよう、しっかり目をさませておれよ)」と自省自戒を繰り返された師彦禅師の故事を思い出してください。自分の弱気や怠け心も「他」です。だれもが本来持っている「天上天下唯我独尊」の仏性に合掌するのです。「他に求むるは、自らに求むるに如かず」「天は、自ら救う者を救う」そんな言葉も思い出されます。自分を本当に愛するのなら、自分に合掌して、自己を最大に生かすべく最善の努力をすべきです。それこそが本当の「楽しさ」でありたいものです。
三つ目の「おたがいに合掌する」は、上記二つを考えていただければ、おわかりでしょう。おたがいの等しくそなわっている「仏性」に合掌しあうのです。おたがいの人権を尊重しあうことなのです。「僧」とは、お寺のお坊さんだけをさすのではなく、ここでは「和合衆」と訳され、植物・鉱物・動物も含めた「仲間」が適切だと思います。
以上、「合掌の精神」の概略を述べさせていただきました。合掌

竜穏庵老師 平成31年年頭垂示

平成31年1月5日(土)18:30~ 四国禅会 新年互礼会 竜穏庵老師垂示

明けましておめでとうございます。年頭にあたり少しお話をさせていただきます。
正月一日の良寛和尚の手紙を読んでみます。
「是はあたりの人に候。夫は他国へ穴ほりに行きしが、如何致候やら、去る冬は帰へらず、こどもを多くもち候得ども、まだ十より下なり。此春は村々を乞食して其日を送り候。何ぞあたへて渡世の助にもいたせんとおもへども、貧窮の僧なればいたしかたもなし。なになりと少々此者に御あたいくださるべく候。正月一日」
これは良寛和尚を最後までお世話をした豪農の親友、解良叔門という人に当てた手紙です。正月の手紙ですけれども、おめでとうとかいう挨拶はなしに、いきなり夫は他国へ穴掘りにでかけたけれども、いつもなら正月に帰ってくるのに帰ってこなかった。年は十より下の子どもが多くいるが働きはない。この春は村々を乞食して送っている。こういう地獄の底から出てきたような女の乞食ですね。何にも与えるものがないから、この手紙を持って解良叔門の所へ行きなさい。解良家は豪農ですからどういう扱いをしたか分かりませんが、この女の人は地獄の底から良寛の所へきて仏様に会ったようになったんですね。この手紙が今も解良家に残っています。言いたいことは、今拝読しました立教の主旨の中に第一の自利利他の願臨を廻らして本当の人生を味わいつつ、世界楽土を建設するのが目的なんだ。世界楽土というのは遥か彼方にあって手の届くようなものではないと思いがちなんですが、こういうふうにこの女の乞食のように地獄から世界楽土のど真ん中に出てきた、そういうふうな喜びがあったと思います。実際には自分らの脚下から世界楽土への道が続いているということを言いたかったんです。
この時分には皆貧しいものですから、こういう手紙もあります。
「寒天の節、如何お暮し候や野僧無事に過ごしおり候。もめん衣なくいたし不自由に候。もめん二反墨染めになし遣わさるべく候。ひとへに願入候。十月五日」
これは木綿の衣なくして不自由にしているからどうぞ墨染めにしてお送りください。この書簡は良寛の和歌と関係がありそうだと相馬御風氏がいっています。
「神無月の此、蓑一つ着たる人の門に立ちて物乞ひければ、古衣ぬぎすててとらせぬ。その夜あらしのいと寒う吹きたりければ、いづこにか旅寝しるらぬばたまの夜半のあらしのうたて寒きに」
という良寛の歌にこれがついておるということです。裸の上に蓑だけ来て物乞いにきた男がいて、良寛はその場で自分の衣を脱いでその者に与えた。そのために寒く不自由になってこの衣の無心の手紙を書いたんということでしょう。十月五日は神無月、今の十一月ですね。
 もうひとつ読んでおきましょう。解良叔門の息子だと思いますが、解良栄重という人が良寛禅師奇話というものを書き残しておりまして、その中に載っている実話です。
「盗あり。国上の草庵に入る。物の盗み去るべきなし。師の臥蓐をひきて、密かに奪んとす。師寝て知らざるもの、如くし、自ら身を転じ、其ひくにまかせ盗み去らしむ。」
盗人が入った、良寛のいた国上山の五合庵に。庵の中には何にも盗むものはない。良寛和尚の寝ている布団を引っ張って、寝ているのを起こさずに布団だけを奪おうとしている。良寛は眠っているふりをして、ごろりと身を転じて布団を盗ましてやった。この時分は皆貧しいものですから良寛和尚は自分の出来ることを全力でやるわけですね。それが自利利他の願臨を廻らすということになると思います。我々の場合は、乞食が訪ねてくることはなくなりましたけれども、道場へ来る方というのは心に悩みのある人です。維摩居士が、「衆生病むがゆえに我病む」衆生が病んでる間はこの病気は治らないといわれたそうです。そういう心が病んでいる人が来るわけです。そういう人に対して何をしたらいいのかいうことを、工夫してほしいと思います。さしあたりは数息観を説くということ、実際に数息観のありがたみが身に染みて分かっている者であればそれができるはずです。もう少し進んだ人には参禅を進める。本当に参禅してよかったという喜びを知っている者ならそれができるはずです。
この修行は必ずしも人数によるものではありませんが、支部になるためにはもう少し人が欲しい。そういうことを心がけてほしい。入門した人が一人も来ないということは、反省しなければなりません。今年はしっかりやりましょう。はい。

千里同風

千里同風   竜穏庵老師
 澄徹庵老師が岡山から四国へ御巡錫されていた頃の事、老師が散歩に出られた後、急に天候が崩れて土砂降りの雨になったことがあった。侍者が案じながら待ちかねていると、老師がようやくボロ傘をさして帰ってこられた。「親切な人が貸してくれたよ」と笑っておられたが、見るとその傘は何本も骨が折れて、おまけに赤い女柄である。おどろいたが、「明日返して参りましょう。」と申したら「それに及ばず」と云われ、老師はその傘を乾かして翌日ご自分で返しに行かれた。
 後日、物種吉兵衛という妙好人の語録を読んでいたら、よく似た話がのっていた。曰く、隠居様(吉兵衛のこと)が商いに行って、戻りに大雨に出遭うて、途中から半分ちぎれた笠を借りて帰られた。近所の人達の申すには「吉兵衛様、ようそんな笠を貸す人も貸す人や。そのような笠を借りて来なされたナア」と申した。その時に「イヤ、これで雨が凌がせて貰うたワヤ」と申して、その笠を晴天の日によく乾かして、わざわざお礼申して返しに行かれた、と。
 今も昔も、君子は千里同風ではないか。

「夢」

                           「夢」 
                                                        竜穏庵光蓮

 一山一寧禅師が「夢」の一字を書いて、それに「尽く(ことごと)謂う(い)、荘子胡蝶を夢むと。誰か知らん、胡蝶の荘周を夢みることを。」と賛をしている。「誰もが、荘子が胡蝶の夢を見たことは知っている。だが、胡蝶が荘周の夢を見たことを、一体誰が知っているだろうか?」と。
 胡蝶が見た荘周の夢とは、一体どんな夢だろう?
 禅では先ず、迷っている人が、最初の見性(悟り)で夢からガラリと覚める。それ以後、刻苦して道眼を磨き、道力をつけて、段々と人間形成が進むにつれて、どうも悟りの世界も亦、夢ではないかと気がつくようになる。
 沢庵禅師は「夢」の一字に、「百年三万六千日、弥勒観音幾(いくばく)の是非、是も亦夢、非も亦夢、弥勒も夢、観音も夢、仏云くまさに如是の観をなすべし矣。」と書き、玉舟禅師は、同じく「夢」の一字に「従上の仏祖、天下の老和尚、すべて箇の一字の中に在り。」と賛をしている。
 これらは皆、悟りから覚めて始めて見る夢である。般若心経の「色即是空・空即是色」は決して単なる法理ではない、己の人生も亦、この通り色であると同時に、空でもある。空のままで亦色でもある。
ここに到って始めて荘周の見た(胡蝶の)夢と胡蝶の見た(荘周の)夢とが混然一体となって、そこに大無心の境地から無礙自在な、天下と同根・万物と一体の、荘大な「夢」が展開してくるのではなかろうか。

平成30年度摂心会・参禅会のお知らせ(訂正版)

平成30年度の摂心会・参禅会を下記の日時に開催の予定です。(訂正版)

第1回摂心会 期日 平成30年 5月 23日~平成30年 5月27日  場所 四国道場 担当師家 竜穏庵光蓮老師
第2回摂心会 期日 平成30年 8月22日~平成30年 8月 26日 場所 四国道場 担当師家 同上 
第3回摂心会 期日 平成30年10月17日~平成30年10月21日    場所 四国道場 担当師家 葆光庵春潭総裁老師
第1回参禅会 期日 平成30年12月 1日~平成30年12月 2日 場所 四国道場 担当師家 竜穏庵光蓮老師
第4回摂心会 期日 平成31年 2月 20日~平成31年 2月 24日 場所 四国道場 担当師家 同上
    
摂心会・参禅会は座禅修行の中でも本格的な、担当老師による個別指導(参禅)を含んだ道場に泊まり込んでの修行です。
本格的作法による座禅や作務、食事、老師による提唱・法話などがあります。
初心者の方には丁寧な指導も行います。短時間の参加も歓迎しています。

平成30年度 摂心会・参禅会のお知らせ

平成30年度の摂心会・参禅会を下記の日時に開催の予定です。

第1回摂心会 期日 平成30年 6月 6日~平成30年 6月10日  場所 四国道場 担当師家 竜穏庵光蓮老師
第2回摂心会 期日 平成30年 8月22日~平成30年 8月 26日 場所 四国道場 担当師家 同上 
第3回摂心会 期日 平成30年10月17日~平成30年10月21日    場所 四国道場 担当師家 葆光庵春潭総裁老師
第1回参禅会 期日 平成30年12月 1日~平成30年12月 2日 場所 四国道場 担当師家 竜穏庵光蓮老師
第4回摂心会 期日 平成31年 3月 6日~平成31年 3月 10日 場所 四国道場 担当師家 同上
    
摂心会・参禅会は座禅修行の中でも本格的な、担当老師による個別指導(参禅)を含んだ道場に泊まり込んでの修行です。
本格的作法による座禅や作務、食事、老師による提唱・法話などがあります。
初心者の方には丁寧な指導も行います。短時間の参加も歓迎しています。

摂心会懇親会では句会をします。

本年度の摂心会より、最終日前夜の懇親会ではそれぞれが、この摂心会で感じたことを中心に句会をします。今回は下記のような句がよせられました。摂心会の雰囲気を感じていただけるのではと思います。

1 夕焼けに染まる落ち葉の散歩道  高照
2 新米の香りかぐわし朝ごはん  高照
3 秋黴入りいつしか庭樹の色づけり 尾﨑
4 虫の声消えて鈴の音聴きやすし  甚深
5 串団子買うて無月の道帰る  光連
6 秋の雨静かに参禅終わりけり  甚深
7 耳鳴りにまぎれて細るキリギリス 光連
8 道場に住み着いたる虫数多し  蟠竜
9 木犀の香で摂心の月になり  甚深
10 咲き残る吾亦紅活け風炉名残  光連
11 やわらかな雨になりけり花野径  尾﨑
12 秋雨やクモは糸張り虫ねらう  妙薫
13 身に入むや盌のぬくみを抱きながら 光連
14 居士寮にマナーモードの虫の声  蟠竜
15 隠寮へ秋の灯の二つ三つ  尾﨑
16 蜉蝣の命儚くふるえけり  法泉
17 西王母狂ひて咲くや月の頃  光連
18 雨止みて聞こえる虫の音ひそやかに 法泉
19 銀杏と晴れ着の孫の宮参り   清風
20 われもこう古茶碗と出会う朝茶かな 妙薫
21 長雨で爽やかなく衣重ね   妙薫
22 水田にポッカリ サークル秋うんか  義風
23 木々の葉もしぶく色づく秋の風   高天
24 カメムシの臭いに怒る夜長かな 義風
25 秋雨や花の命を知るものぞ 高天
26 台風に雲乱れたり刈田かな 晩水
27 寒しげに秋雨の刈田稲架並ぶ 晩水
28 道ぞいにつるし柿なる台風下 晩水

円相について

◎円相について
新しいお茶人から、今度の茶会に掛けようと思う と 墨跡の解を聞かれました。拝見すると、円相を画いて讃語に、「人々這ケ出不得」とあり、筆者は大徳寺の宙宝和尚です。
円相の意味は、讃語によって変わってきます。
「人々這箇出不得」とか「天下の衲僧跳不出」とかある場合は、縦に無始劫来より尽未来際まで、横には大宇宙の隅から隅まで、絶対の真理(如是の法)が充ち満ちているのだから、この円相から外に飛び出すことは絶対に不可能だという意味です。人間だけでなく山川草木禽獣虫魚に至るまで、一切の存在がこのままここで生き、ここで死んでゆけばそれでよいのです。悟っていようが迷っていようが、そんなことは一切関係ありません。
『法華経』には「一切治生産業みな実相と相違背せず」とありますし、道歌にも「雲晴れてのちの光と思うなよ元より空にありあけの月」とあります。
安心して生き、安心して死んでゆきましょう。
それでも、自分自身に「うん、そうか」と納得できぬうちは、どうしても安心出来ぬという人のために、「坐禅」があります。どうぞあなたのお越しをお待ちしております。
竜穏庵井本光蓮 合掌

大丈夫

 「大丈夫(だいじょうぶ)」とは、多くの人が、日常的によく使う言葉です。「心配しなくてもいいよ、大丈夫」「安心していいよ、大丈夫」などと一般的によく使われます。
 「丈」は、長さの単位、「夫」は、男の人を意味します。中国では、もともと成人男子のことを「丈夫」といいました。それに「大」がつくわけですから、「大丈夫」は「立派な男性」を意味していました。それが日本に伝わり、少しずつ変化して、私たちが今、日常使っているような意味になったのです。本来は男性を指す言葉でしたが、「心配ない」「安心していい」という意味では、男性に限らず女性にも使っていますね。
 仏教は、修行して仏になる教えではありません、本来仏である自分に気づく教えです。本来仏である自己が、仏として修行するのです。仏として毎日を生きるのです。「大丈夫」たる本来の自己が、考え、語り、行動するのです。いつも大丈夫である自分、ぶれない自分になるためには毎日の在り方が大切です。正しく考え、大切な日々を一生懸命生きる自分でありたいものです。

少欲知足(しょうよくちそく)

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少欲知足 ~すでに足りていることを知る~
「少欲」と「知足」というのは、お釈迦様の最後の説法をまとめたお経「仏垂般涅槃略説教誡経(ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう)」に出てきます。
 少欲も知足も、お釈迦様が最後の説法で、息を引き取る直前に弟子たちに示した教えで、「すでに足りていることを知りなさい」という意味です。たくさんの教えがある仏教ですが、お釈迦様の遺言であるこの言葉は、深く重いものです。
 お経に出てくるお釈迦様の言葉を現代の言葉に直してみると、以下のようになります。
「修行僧たちよ、知るべきです。欲の多い人は、多くの利益を求めるために、苦しみもまた多いのです。一方、欲の少ない人は、求めることもなく欲することもないので、欲の多い人のような憂いはありません。修行者たちよ。もし多くの苦しみや悩みから脱したいと願うのなら、足ることを知りなさい。知足の教えを知ることは、富楽安穏(ふらくあんのん)の場所に住むことことなのです。」